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写真日記


7年前の日記です

2002年7月2日「ピチットの家」ボランティア 中井敏寛

昨日からホームスクールの建物で過ごしているピチット。今日はヤクルトを飲みたいと言い、近くで買ってきたヤクルトをよく飲んだそう。昼食はお粥を少し食べ脈拍も安定して来たもののほとんどの時間を眠って過ごしている。ウェウ先生が一日中つきっきりでそばに居て介護しており、深夜でもピチットが「水を飲みたい」と言うと飛び起きて彼に飲ませてあげている。

今朝、目覚めたピチットが「ズボン、、、」と言った。それまで寝ていたピチットは寝ている間毛布が掛けられていたものの、上はシャツで下は紙オムツ。今のピチットは立つことも難しくトイレに行くこともままならない。しかし紙オムツの姿を人に見られるのが嫌だったのだろう。間もなく彼にズボンを穿かせた。それを見ながら以前タイのHIVホスピスを見学した時の事を思い出した。そこでは末期の男性患者は着るものと言えば紙オムツだけでベッドに寝かされていた。まだ6歳のピチットさえ紙オムツ姿を人前に晒すのを恥ずかしく感じた。毎日何十人と見学者の来るその施設で、ベッドに毛布もなく横たえられていた人たちの気持ちは如何ばかりだったのであろうか。

人は死を迎える時、信頼できる人がそばにいたり、慣れ親しんだ家で、そして何より人間の尊厳を傷つけないで欲しいと思うのは当然であろう。

ピチットは病院に行く事を拒み、バーンロムサイに居る事を望んだ。
最後まで希望を捨てたくはない。でも最後までここがピチットの家なのだと安心させていてやりたい。(中井敏寛 記)

そして翌日ピチットは亡くなりました。
お昼過ぎポカリスエットをひと缶飲み干し、それまでの不機嫌な表情が嘘のように穏やかになり、部屋に居る一人一人の顔をじっくりと見つめ、泣きながらすがる保母ロットさんの肩をなだめる様に叩き続け、午後4時20分、ウェウ先生の腕の中で安らかに息を引き取りました。

あれから7年、ピチットが生きていれば14歳。植物や動物が好きだった彼はどんな少年、いや青年に育ったのでしょう。また中井敏寛くんの日記にあったあのHIVホスピスは今どうなっているのでしょう。私もその施設を2001年に見学したことがありますが、女性患者は最後のステージが来ると洗髪もできなくなり虱が湧くことがあるとの理由で髪の毛は坊主頭に刈られてしまう。若い女の子が髪を切られ、紙オムツと薄っぺらな上着だけでベッドに寝かされていた姿を思い出します。多くの見学者が毎日訪れ、また何をされても患者はNOと言えない弱い立場、、、、、、、管理する側の都合ではなく、死が近づき不安な患者の側に立っていてあげれば良いのに、何故それができないのか不思議でしたが、その時の施設側の言い分は「ただでさえ多いエイズ患者、家族からも見捨てられた彼らはここに入れた事だけでもラッキーと思ってほしい、人手も少ないしこれ以上の事は出来ない!」との事でしたが、その施設は当時いろいろな形で多くの寄付を集めていました。少なくともそのお金で人手を増やすことは出来るのに、と思った事を覚えています。お金は使うべきところで上手く使えれば、そのお金は生きるのに!(名取美和 記)

写真は"ピチット ぷー!"(左)とピチットの描いたクリスマスツリー(右)

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名取 美和|2009/07/10 (金)

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