トップ > 写真日記

写真日記


グライが退園しました

今年の11月2日でバーンロムサイは開園から10年となります。10周年の節目に記念となる小さな冊子を作りたいと思い、2000年2月23日から書き始めた「写真日記」を読み返しています。

バーンロムサイで最初の10人の子どもたちが入園してから1カ月後の1999年12月にナットとグライが入園しました。それまで二人が暮らしていた国立孤児院の院長に、度々孤児院で見かけていたナットを是非家で引き取りたいとお願いしたところ、「ナットは下の子の面倒見も良い子なので、出来る事なら手元に置いておきたいがグライも一緒に引き取ってくれるようなら、よろしいですよ」との事で「ナット+グライ」二人揃ってバーンロムサイにやってきました。と言う事はグライはバーンロムサイに来る前から何かと問題を起こしていたのか、、、、やはり入園早々いろいろな問題や事件を起こしていた事を、日記を読み返してひとつひとつを思い出しました。

グライには祖父がチェンライ県で生きている事が分かっていることから、何回か会いに行こうか誘ってみましたが頑として「会いたくない」と祖父との再会を拒んでいました。どのような環境で6歳まで過ごしたのか、怖がりでさみしがり屋のグライの口から小さかった時の事は多く語られることはありませんでしたが、彼が語った「僕はお父さんみたいに癌で苦しんで死ぬんだ」「おじいさんは僕を木に吊るして殴ったんだ」「誰も居なくなってしまって近くのお寺に助けてって!行ったんだ」これらの体験は彼の性格を形成する上で大きな影響を与えてしまったのは事実でしょう。

ホームに来てすぐの頃、私の運転する車の後部座席に座り、窓の外を眺め一人静かに涙を流す姿や、寝入るまで握っていてと言われ握った手をいつまでもしっかりと握り続けていたグライ、そしてあのチャーミングな微笑みが思い出され、グライが問題を起こす度に「これは彼からのSOS信号!」と理解し、毎回真摯に彼と向かい合い、きっと時が来ればきっと良い方へ向かうだろうと願ってきました。

喧嘩をし、物を盗み、叱られると貝のように口を閉ざしてきたグライ。頭の回転があんなに早いのに、何回も何回も事件を起こした後、このまま行くとある日私たちでも助けられなくなる日が来るよと、薬をちゃんと飲まないとどうなるのか口を酸っぱく言い続けたのに彼は理解してくれなかったと言う事なのか?服用し始めてからそろそろ7年経つ薬の副作用で、自分でも理解できない何かを抱え込んでしまったのでしょうか、、、、この5月入学した高校を2週間続けて黙って登校せず、7月初めに退学処分を受けてしまいました。おまけに月に3回忘れると耐性が出来てしまうと言われている抗HIV薬が飲まずに袋に入ったまま彼の部屋から沢山出てきました。

そして今日までのこの1カ月、いろいろな事が起こりました。これからどうしようと悩んでいたさ中、グライの父親の妹である彼の叔母から「自分もHIVに感染しているしこの際グライを引き取り面倒をみたい」との申し出がありました。これが今考えられる一番の解決手段と判断、グライは先月の末からチェンライの叔母の下で暮らしだしました。

グライのプライバシー等を考え日記に掲載出来ない事件もいくつかありましたし、どこまで皆様にお知らせするべきか、、、しかし長い間グライを見守って下さって来た方々に対しても、また私たちとしても一つの区切りとして、敢えて書く事にいたしました。

もしも、、と言う事を言っても何も始まりませんが、グライがHIVに感染していなかったら、両親が生きており両親のもとで穏やかに育っていたら、、、何であれ違う人生を送っていたわけですから、、、、

HIVウイルスや抗HIV薬が成長期の子どもたちにどのような影響を与えているのか?小さな時にどのような体験をしたのか?肉親から引き離された子どもたちが抱えている目に見えない大きなトラウマ、、、虐待やネグレクトを体験をした子どもたちが全員事件や問題を起こすとは思いませんが、これらの幼少期の体験が彼らの人生に及ぼす影響はとても大きいと言う事を今度のグライの事件で痛切に思い知らされました。

9年と8カ月、グライはバーンロムサイで暮らしました。ここで身に付けた事、体験した事が彼のこれからの人生で何らかの形で役に立って欲しい!!楽しい思い出として残って欲しい!! 1対1で愛情を独占できる血のつながった叔母さんとの暮らしの中で、彼自身が幸せと感じられる人生を少しでも長く送ってもらいたいと心から願っています。


090812.jpg

2000年6月のグライ、後ろはナット

名取 美和|2009/08/12 (水)

前の写真日記:初めまして

次の写真日記:2009年 夏

写真日記一覧へ戻る