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写真日記


1962年6月

なんで、ここに、いるんだろう、、、
と誰でも思うときがあると思います。
この頃よくそのことを考えます。
なんで、、、を考えたく、すこし自分の来た道を振り返ってみることにしました。
  



ナンプレー村で、、、なんで、、、を


  
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たっちゃんと、、考える

  
  
  

今では考えられないのですが、まだ日本から出国するにはいろいろな規制や制限もあり、海外に行くと言う事は「水盃」で「永遠のお別れ」であった1962年、「祝、田中太郎君、シドニー転勤」「中村一郎君!行ってらっしゃい、お元気で!」と言った横断幕を目に、「万歳!」の声を耳に夜の羽田国際空港からパリへ一人旅立ちました。1ドルが360円の時代でした。
  
パリ・オルリー空港でミュンヘン行きの飛行機を待っていた時、薄暗い待合室の片隅を白人のおばさんが箒を手に床を掃いていたのです!戦後まだ16年、日本の公共の場で目にする白人女性の多くははるかに日本人より堂々と歩き、上等と思える服を着「お金持ち」に見えたものです。灰色の掃除服を纏い公共の場でうつむき加減で白人女性が掃除をしていたその光景は、16歳の私にとっての最初の「カルチャーショック」でした。当時のフランスのことですからきっとおばさんはアルジェリアかポルトガルからの出稼ぎおばさんだったのでしょうが、その時、私はフランス人とアルジェリア人の違いどころか、アルジェリアなんて言う国が存在していることさえ知りませんでした。

ルフトハンザ機に乗り換えフランクフルト経由で昼過ぎミュンヘンに到着。迎えの車でミュンヘンの街を走りながら目についたのが見たことのない三車線。一番端を人間が、そしてその次を自転車が、真ん中を車が走っていました。どこを見ても何を見ても当時の東京と比べると清潔で整然としておりともかく美しかった。

初夏の光が眩しい街中を抜け、市の西のはずれPASINGの街が近づくにつれ緑が濃くなり、これからの住まいとなるその家の前にはニンフェンブルグのお城からの疎水が流れ、白い小さな水草の花が揺らぎ、マロニエの大木が川面に影を落としていました。マロニエという名前も、疎水がどこから来ているのかは後から知りましたが、到着したその家はまさに「西洋の館」。塀には白い野ばらが咲き誇り、綺麗に刈られた芝と、百花繚乱の花壇、リンゴ、アンズ、クルミ、ミラベルや梨と言った実のなる木や、良い香りのジャスミン、ライラックの花が咲き誇っていました。

1900年初め、彫刻家Josef Flossmannがピアニストの妻と二人の娘の為に建てた家でしたが1914年彼が亡くなり、残された妻は人に貸すために家を改築、1962年の時点で8家族17人がそこに住んでいました。「Villa Flossmann」と呼ばれたその家には数多くの芸術家達が住み、戦後すぐには「MOMO」の著者ミヒャエル エンデも住んでいたそうです。彫刻家のアトリエが二つ、画家のアトリエが一つ、大きな音楽室を兼ねた居間、部屋数30ほどのその家の西翼の片隅の小部屋で私のミュンヘン生活が始まりました。

あれから49年も経ちましたが今でもあの家が「一番住みたい家」です。シンプルでいて家の隅々まで気が配られ、鋭角のない漆喰壁のライン、緩やかなカーブの木の階段、広々とした屋根裏、石炭やリンゴ、ジャガイモの貯蔵庫やワインセラーのある地下室、庭の東屋、石の床、鉛の縁の窓、家具は簡素で心地よいビーダーマイヤー様式、事務机や絨毯はバウハウス時代の物、ところどころに置かれたバロック家具、シンプルな真っ白な食器、それら時代の違うものを何とも絶妙なセンスで生活空間に取り入れられた住まい、どこの窓からも庭の木々が眺められる素敵な家でした。当時そこには陶芸家、彫刻家、役者、舞台美術家、画家、カメラマン、建築家、すでに引退したバウハウスのデザイナーたちが暮らしていました。グラフィックデザインを学びに来た16歳の娘にとってとてもとても楽しく刺激あるもったいない程の環境でした。(続く)
  
興味のある方は http://de.wikipedia.org/wiki/Josef_Flossmann をご覧ください。ただしドイツ語です。


  
  

名取 美和|2011/06/13 (月)

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