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写真日記


1962年7月

ミュンヘン生活が始まって1週間ほどは楽しく日本に居た時と変わらずお腹もすき、普通に暮らしていたのですが、今から49年前の丁度今頃のある夕方、夕食の手伝いの途中、頭の後ろからシャッターが閉じて来たと感じた瞬間、目の前が真っ暗になって失神、気が付いたらベッドに寝かされていました。頭をちょっと動かすだけで猛烈な眩暈と吐き気におそわれました。心配した住人が医者の往診を頼み診てもらった結果「極度のストレス」=「ホームシック」と診断されました。緊張の糸がプツンと切れてしまったようです。倒れた途端「日本へ帰りたい、帰らして、、、、」それまで美味しいと食べていた焼きたてのパンも、チーズもソーセージもいらない「母の作ったおかゆが食べたい、すりおろしたリンゴが食べたい」。一人で鬱々と心細く悲しく泣くばかり、、

この年の3月に高校1年を終了し学校を退学、日本を出発するまでの3か月間ドイツ語を習いには行っていましたが、なにせたったの3か月。おまけにそれまでの16年間一人で旅したこともなく、知っている世界は「家と学校」だけ。そんな子が突然見ず知らずの言葉もほとんど通じない所に行ってしまったのですから「ホームシック」は当然と言えば当然。

到着直後片言のドイツ語と身振り手振りで楽しく普通に暮らしていたことがまるで嘘のようにドイツ語なんて話したくない!ドイツなんて大嫌い!日本へ帰りたい!!

倒れてから2,3日は何も口にする事もできず、トイレにも抱えられて行き、あとは寝ているばかり。しばらくして起き上がれるようにはなりましたが起きているとまたふらふらと倒れてしまう。起き上がると大急ぎで母に「日本に帰りたい!帰して欲しい!」との手紙を書き「速達で!」と住人に投函を頼み、またベッドに倒れこむ。何通も何通も書きました。医者はきっと時が治してくれると分かっていたのでしょう、薬を処方してもらった記憶もありません。「ホームシック」まさにSICK,病気でした。

まだ普通の家庭から国際電話などかけられなかった時代、母から「自分が行きたいと言って行ったのだからもう少し様子を見なさい」と言った内容の速達が2週間後に届いたころにはケロッと完治。心配した父が仕事を兼ね7月の終わりにミュンヘンに行きますと母の手紙にありました。

これを経験したおかげで免疫ができたのかそれ以降どこに行っても「HOME SICK」に罹ることは二度とありませんでした。明治の頃から一人で留学していた人たちが必ず一度は通過する「儀式」とホームシックはとらえられていたようです。当時「外国」はまさに遠い未知の世界。手紙以外の通信手段もなく一人で「異国」にいる「異邦人」は、生活に慣れ言葉が話せるようになるまでは本当にさみしく心細いものでした。

バーンロムサイに入園した1,2歳の子は何もわからず泣くことはないのですが5、6歳の子どもたちは入園から何日間は必ず「メー(母さん)家に帰りたいよ!」と泣いていました。家とは以前の孤児院、そしてメーとはそこの保母さんの事です。あの頃、入園した子どもたちが靴も脱がず、リュックを背負ったままホームの入り口に立ち泣いているのを見て、「ホームシック」を思い出し子どもたちの心細さがよくわかりました。

私は3週間ほどで憑き物が落ちたようにまた元気になり、7月の終わり父が心配して来てくれた時には元の楽しい生活に戻っていました。9月の新学期までの1ヶ月父が欧州旅行に連れ出してくれました。

しかしその時すでに父が末期癌だったとは私は知りませんでした。(つづく)



親子でも、兄弟姉妹でもないのに、こんなになかよし


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名取 美和|2011/07/13 (水)

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