1963年はじめ
1962年9月末にはヨーロッパ滞在を終えた父が日本に帰国、ミュンヘンでの本格的な一人暮らしが始まり学校生活も楽しくなって来た矢先の11月末、父が亡くなったと母が知らせてきました。帰国する必要はないので元気だったころの父を思い出しこれからもミュンヘンで勉強をしてください、と手紙にありました。深々と雪の降る午後でした。
ミュンヘンの冬は長く11月から灰色の雲が重たくたれこめ、雪割草とクロッカスが地面から顔を出し始める3月末まで暗く寒い日々が続きます。早朝まだ暗い中、凍った雪の上に積もった新雪をギシギシと踏みしめ学校に行き、電気の灯った家々を横目に真っ暗な中帰宅。
一人住まいの70代の戦争未亡人が借りていた住まいの一部屋をまた貸ししてもらい最初の半年ほど住んでいましたが、部屋は小さく、ベット、洋服ダンス、机に椅子を置くともう一杯、冬は冷蔵庫ともなる二重窓のあいだが食料貯蔵庫。キッチン、バス・トイレは未亡人と共有、シャワーは週に一回のみ、それ以外の6日間はおへそから上用ハンドタオル、下用ハンドタオルを濡らし石鹸を付け体を拭き、ゆすいだタオルで拭くだけ、、、、さすがシャワーとシャンプーが週一回と言うのは辛かったのですが、何も私の待遇が特に悪かったと言う訳でもなく、当時まだ多くの人はそんなような生活を送っていました。
キッチンも卵をゆでたりオムレツを作るくらいならOKでしたが、油を沢山使うお料理はしないようにと言われていました。そもそも自分でまだ何一つまともな料理も作れず特に不便と感じませんでしたし、週末は同じ家に住むデザイナーの所で昼食、夕食は彫刻家でと渡り歩き美味しいお食事を頂いていました。
当時のドイツの食生活はいたって質素、朝はコーヒーに毎朝配達されるこぶし大のパン、それにバターと自家製ジャムが定番、昼は温かい食事、そして夜は黒パンにハムやチーズと言った冷菜、私の住んでいた家の住人達の多くは夕食には紅茶を飲み、テレビを持っている人もおらず夕食を終えてからワインを飲んで、ゆったりとした時間を過ごしていました。日本には丸2年帰国しませんでしたが一度も日本食が食べたいと思ったこともなく、そもそも当時ミュンヘン在住の日本人の数は25人ほどでしたので、需要もなかったのでしょう。1972年ミュンヘン・オリンピックの年に俳優三船敏郎が「MIFUNE」を開店するまで一軒の日本料理屋もなく、日本食の材料は「キッコーマン」くらいしか手に入りませんでした。何回か中華料理は食べてみましたがどこも不味く、一番びっくりしたのはタンメンの麺がスパゲッティ、シイタケの代わりにマシュルーム、、、、それに中華と言えど皆でシェァする習慣のない当時のドイツでは自分の頼んだものを各々が黙々と食べるので、つまりませんでした。
2月はドイツでファッシングと呼ばれているカーニバル(謝肉祭)の季節です。もとはと言えばイースターまでの40日間倹しく暮らさなくてはならないので、その前に大いに飲んで食べて楽しんでおこうと言うお祭り。子どもから大人まで思い思いの衣装をまとっての仮想パーティーが街中や自宅で開催されます。
今ではパーティーを避けて生きていますが、、当時はまだ物珍しさで学校の友達の家や住んでいた家でのパーティーに参加し朝まで飲んで踊って大騒ぎをしました。ファッシングが終るとイースターまでは寒い静かな灰色のミュンヘンに戻りました。
あれから半世紀近くたちますが、今でも雪を見るとあの11月の午後ミュンヘンで読んだ母の手紙を思い出します。
バナナの花と蜂
名取 美和 | 2012/02/01(水)
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