「1965年冬、日本への航海」
マルセイユで乗船したフランス郵船の貨客船「ラオス号」は最初の寄港地エジプトのアレキサンドリアで停泊後、スエズ運河を抜け次の寄港地Adenへと向かいました。3年過ごしたミュンヘンの町はすでに冬。まだ暖かな地中海に到着しマルセイユの駅からMMラインの事務所のある港まで行く間暖かく開放感を感じたのを覚えています。港町マルセイユのあの湾を抜け地中海を航行、アフリカ大陸の北東にあるアレキサンドリアで下船、カイロの町とピラミッドを見物、スエズ運河を抜けあの映画「アラビアのローレンス」の舞台となったアラビア半島を左手に南下し、二つ目の寄港地イエーメンのAdenに到着しました。しかしまったくAdenの記憶がないので下船しなかったのでしょう。なだらかな赤茶けた陸地を見たような気がします。
何しろ47年前の事、、、記憶の断片は頭に浮かぶのですが、あまりに漠然としていて今その印象を綴るのは難しいのですが、この45日間の航海中忘れられない風景がいくつかあります。360度どこを向いても海また海、、、そしてさまざまな色の海、舳が空に向かいその後一気に海に突っ込むほどのうねり、漂っていた巨大なクラゲ、、船と伴走するイルカの群れ、甲板に飛び込んできたトビウオ、空を埋め尽くしていた星の数、遠くに陸が見え出した時の不思議な安心感、それぞれの港の匂い、、、
Adenの次の寄港地はインド・ボンベイ(現ムンバイ)。ここで見たことの幾つかはっきり覚えています。まず桟橋には多くの物乞いが下船する船客を待ち構えていたこと。「きりがないので決して何かを上げないでください」と下船前に注意がありました。桟橋で待機していたバスに乗り市内見物で行った先は公共の洗濯場、幾つもの水の溜まった大きな水槽が野外に連なっていました。そこにあった色とりどりの洗濯物が今でも目に浮かびます。そして次に向かったのは売春街、まだ幼い子たちの真っ赤な口紅の色と窓に干されていた汚れたサリー、、、まだ時々使われていますと言う鳥葬場、、、なんでそんなところに連れて行かれたのか、そう言うところに誰かが行きたいと言ったのか、全く記憶がありませんが何人かの日本人とドイツ人、イギリス人と一緒に行きました。河っぷちの食堂に入った記憶はあるのですが食べた記憶はなく、生ぬるいコーラばかりを飲んでいた覚えがあります。「インドは、はまるか、二度と来ないか」と言われていましたが、47年前のボンベイはヨーロッパ帰りの19歳の娘にとって猛烈に汚く、私は二度と来ることはない!と思いました。あれから47年、インド自体急速に発展を遂げまるで違う国になっているようです。でも私はあの47年前のインドをもう一度訪ねてみたい。
どこの寄港地でも夜は船に戻り自分のキャビンで寝ます。われらの3等船室は換気扇もなく丸窓は開けられず潮のせいで外も見えず、いつもペンキとトイレの臭いがしていました。またボンベイからコロンボへは玉ねぎを船倉に積んでおりこの3日ほどはキャビンで寝られないほど玉ねぎ臭く、枕と毛布を持って甲板の片隅で星を眺めながら寝ました。船はメンテナンスのためかいつも船内船外のどこかをフランスの船員がペンキを塗っていました。今思いかえすとほんとに楽しい船旅でした。あの航路がなくなってしまったのは本当に残念です。続きはまたいつか。フランス郵船に興味のある方は下記をご覧ください。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_238.htm
10月、、黒猫タンゴが亡くなってしまいました。このお話はまたいつか、、
名取 美和 | 2012/11/01(木)
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